百瀬博教のミッドナイトシュークリーム
語

 新田新作は、戦争が終わるまで<焼跡の整理や強制疎開指定の建物の取り壊し>といった土木作業を請負っていた。日本中が、鬼畜米英と言って敵国を罵っていた時代に、川崎の収容所に囚われていた米軍兵達が新田の現場に割り当てられてきた。彼はこの捕虜たちに、これ以上ない思いやりを持って接し、身銭を切ってもう日本人でも喰べられなくなった野菜を喰べさせたり、時には酒まで飲ませ、彼らを同じ人間として扱っていた。

 親切は勝利する。

 戦争が終わりアメリカ軍が東京に進駐すると、GHQ本部が新田新作を呼び出した。それは多くの日本人指導者が受けた死刑宣告の知らせとは真反対の通達だった。川崎収容所の捕虜だった心ある高官の一人が、GHQに対し、戦後東京の復興事業を託すのは新田新作以外にいないと示唆してきたのだ。

 人を集める才と人を見極める眼力が飛びっきり長けていたのだろう。東京復興事業が決まると、新田は未曾有のブルーカラーチームを組織した。東京中が空襲で消滅し、焼け野原で燻っていた者も、仕事を無くしていた者も新田の下で息を吹き返し、皆懸命になって働いた。鶴嘴ひとつない時だったが、新田は足場を組むこともできないような組にも資材や工具を気前良く分け与え、復興事業の組織を拡大していった。

 叩き上げの人だった。彼は清水、鹿島といった大手建設会社にいた高学歴の経済者とは一線を画していた。財界との古い繋がりもない。学歴もない。福井から無一文で上京し、親切と器量だけで戦後日本の復興に最も貢献する事業家へと伸し上がったのだ。若く金もない頃、芳町の美人芸者を嫁にし、40代の若さで明治座を再建して社長にもなった。エリートの財界人達が国産の中古車に乗っていた時代に、その数十倍の値が付くピカピカのキャデラックに乗って競馬場や浅草の狭斜(きょうしゃ)に出向き豪遊していた。

 新田の武勇伝は、戦後まもない相撲協会へのサポートにも顕れている。昭和21年、横綱双葉山が引退相撲をどうしても69連勝した思い出深い国技館で開催したいと願ったが、断じて許可しなかったGHQに掛け合い、いとも簡単に口説いてみせた。24年前には、当時の金で3千万掛かった浜町の仮設国技館を相撲協会にポンと寄付したこともある。

 新田は力道山の大恩人でもあった。夜中にマゲを切って相撲界を飛び出し、当時としては海のものとも山のものともつかぬプロレスに挑戦したいという力道山が立ち上がった時、パスポートを手配し、アメリカ滞在の資金まで調達してやったのだ。新田は、純粋に力道山に惚れ込みパトロンになった。帰国後、力道山は日本一のスターとなった。限られた青春のタイムコストを高く売りたいという若い格闘家なら誰もが持っている野望を抱き、個人財産である歌舞伎座の近くの料亭を売却して資金を用意した興業師永田貞雄の肩を抱いた。新田には、力道山に金をつぎ込んでも、お返しを貰おうという卑しさは全くなかった。だから裏切りの渦巻く興業の世界に携わり、大変な苦労をした。

 田中角栄が学閥政治家達によってロッキードとの関わりをリークされたように、何もない所から押し上がったブルーカラーヒーローは嫉妬される。東京の復興が一通り終わり、やがて戦前から力のあった財閥が復活すると、新田の事業は縮小した。もし、東京の開発事業に収まらず、米軍とより密に接触し、朝鮮動乱の時代に砲弾や戦車のキャタピラを作る会社を立ち上げていたら、その組織は長く維持できたのかもしれない。

 幼い頃、市川に住む父の元に新田がよく訪ねてきた記憶がある。

 ある日、いつものように新田が親父と雑談していると、家に子連れの美女がやって来た。4人の幼い子供を使い、泣き事を言っては金を無心する「泣き売(ばい)」の女だ。

 女は、子供がいるので働き口もなく、亭主もいないと、親父に泣きついてきた。

 親父はいくらかやって女を追い返した後、新田に言った。

「きっとああいうことを毎日やって、飯を食っているんだろう。時には淫売もするんだろうな」。
その時の新田が、滅法格好良かった。
「おじさん、あの女は子供を邪魔者扱いしているようなことを言っていましたが、本当は子供が大好きなんでしょうね。でも、こんな真似してたんではいい子に育たない。私が全部貰っちゃいましょうか」。

 <万事にハデ好み、お祭りの新ちゃんとも言われた>
快男子新田新作は私が16歳の時に亡くなった。享年51歳。(文中敬称略)

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